活動報告(1)2012年3月

期 間:3月10日(土)~14日(水)

 

3月10日

上野駅…一ノ関駅…9番 羽縄観音堂…3番 古谷観音堂…4番 要害観音堂

…5番 上長部観音堂…30番 大石観音堂

 8時半上野駅中央口集合。8時46分発の新幹線に乗車。天気予報は曇りか雪の天気で、最高気温3度、最低気温-2度。防寒着・雨具・長靴と寒さ対策は万全。道中、福島あたりは雪であったが、仙台では曇りとなる。一ノ関駅で下車し昼食。駅前食堂の「松竹」で名物のソースカツ丼を食べる。おばちゃんが親切だ。マツダレンタカーにてホンダフイットを借り一路、高田へ。小雨は降っているが、雪もなく峠越えは快調である。1時半高田着。今回は、札所の現状確認が目的なので、津波の被害が心配される海辺に近い札所を重点的に回ることとする。

 

 まず、お参りの第一歩は、竹駒町滝の里にある9番羽縄観音堂である。『祈りの道 気仙三十三観音巡礼』(東海新報社)を頼りにお堂を探す。辺りは津波の被害を被っており、更地が広がる。道の脇にあるお堂に参るが、どうも違う。津波で流されてしまったのだろうか。近くの民家で観音堂の場所を聞いたところ、お堂は無事とのこと。すぐ近くで親切にご案内いただく。幸いにして一軒四方のお堂も三体の観音像も無事であった。しかし、気仙川からあふれだした津波は、観音堂の脇をかすめ、母屋に押し寄せ床上浸水になったとのこと。30センチの高さでお堂が守られた。堂前の灯籠は倒れていた。現在、母屋があった場所は更地になっている。お堂の管理者の方は、仮設住宅に入居している。郵便入れに連絡先があったので電話をし、玄関に趣旨文と名刺を置く。

 

 次に、「長部(おさべ)三観音」に向かう。国道から海沿いの道に入ると、長部港の施設、堤防など津波に完全に破壊されている。ガタガタで砂塵舞う道を進む。まずは気仙町古谷にある3番古谷観音堂。道は高台へと向かい、被害には遭っていないようである。一般のお宅がお堂を管理しているためわかりにくい。道を歩くおばさんに観音堂の場所を尋ねると、道を曲がったところの家にあると教えてくれた。「大古谷」と表札のでている門をくぐる。丹誠込めた松が門の上に見事な枝ぶりを横たえている。玄関で活動趣旨をお話をする。おばあさんは病院に行っているとのことで、お嫁さんが応対してくれる。屋敷の左手の坂を少し登ると二間四方の観音堂がある。お堂に上がってお参り。明るく光が差し込む、掃除が行き届いた気持ちよいお堂だ。般若心経、観音経、ご詠歌をお唱えする。ご詠歌とは、それぞれの札所に伝わる「五・七・五・七・七」の歌を曲に載せ、お唱えするのだ。古谷観音堂のご詠歌は、「父母の恵みも深き古屋の堂 仏のつかいたのもしきかな」である。しみじみお参りをしたという実感がわく。お話好きのおばあさんだそうだ。再訪を思い屋敷を後にする。

 

 次の気仙町要害にある4番要害観音堂は国道から下りた村の中にあり、たいそうわかりにくい。あたりは津波の被害が大きく現在位置が確認しにくい。あちこちさ迷う。目標は要害公民館。その前の道を下ったところに以前は観音堂があったという。海岸から距離にして200mぐらいだろうか。津波をもろにかぶり、周囲にあった家の跡はもちろんのこと、お堂の土台さえ分からない。観音様の行方も分かっていない。近くの方にうかがうと、かつては路地の突き当たり、石組みの脇にあったという。足下の土の中には、カセットテープやらナンバープレートやらが生々しく生活臭のあふれる物が埋もれているのが見える。管理者の方は、国道沿いの仮設に住んでいると聞き、お訪ねした。ここでも、近隣の方がわざわざ同道してくださり居所を聞いてくれた。親切がしみじみと身にしみ入る。仮設にはおばあさんがいらっしゃるが、息子さんにすべてを任せていること、もう元の場所には住みたくないと思っており高台への移転を希望していることを伺う。もし他の場所に引っ越されたとき、札所を引き続き維持継続するのか、また、どのような支援が必要なのか、よくご意見を伺う必要がある。

 

 次は気仙町上長部の5番上長部観音堂。壊された防波堤にある門を通り、国道の下をくぐり、長部川沿いを走っていく。途中遠野まごころネットのメンバーが翌日の慰霊祭のための会場作りを行っていた。この辺りと見込んで脇道に入ると間違い。若夫婦が地図を出し調べてくれる。さらに先のようだ。家の途切れた左側の小道を行くと「観音堂入口」と記された石柱が畑の際に立てられ、畑の脇を通って裏山へとつづく道には鳥居がある。その鳥居から山道を数分、うっそうたる杉林の中に三間四方の立派な観音堂がある。屋根の張り出しが立派だ。うすぐらい堂内で声高らかにお経・ご詠歌をお唱えする。観音様の前にはお参りに来た方が納めた布が掛けてある。なんとも趣のあるお堂である。管理者の菅野さんの家を訪ね、おばあさんに趣旨を説明する。

 

 あと一箇所ということで、陸前高田市高田町栃が沢の30番大石観音堂に向かう。酔仙酒造があった場所の左手の台地の上にあり、大きな高野槙が目印である。旧家である矢作家は、関ヶ原の戦いで活躍した気仙三十六騎の末裔であるそうだ。矢作さんにお話を聞くと、震災時は、海からそして気仙川から真っ黒な津波が襲いかかり町を飲み込んでいき、高台にあるこのお宅の直下1mまで達したという。その到達点に桜を植える予定だとその場所を教えてくれた。なんでも大量のガレキが家の下まで押し寄せ、裏山から行き来をしなくてはならなかったそうだ。目印の高野槙は、三百年ほど前、先祖が近畿から土産として持ち帰ったものが根着いたもので、この辺りでは珍しいという。以前は裏山に観音堂があったのだが、朽ちてきたため、観音様は縁先にあると案内された。千手観音と地蔵菩薩が祀られていた。薄暗くなっていたのだが、親切にお話しいただいた。なんでも子授けの観音として有名で、小さな赤布で作った枕をお堂から持ち帰り、子どもが授かると新しい物を奉納したものだという。

 

 その後は、宿泊所を提供いただいた竹野さん宅を訪れ、ご挨拶。別宅にご案内いただく。竹野さんは、防波堤を作ったことにより海が見えなくなり避難が遅れたこと、防波堤を過信し逃げなかった人が多かったこと(なくなった方の4割は逃げなかったとの新聞記事があった)、チリ地震の津波の経験が無根拠な安心を抱かせてしまったこと、防災訓練などソフト面が重要であること等を力説された。また、急な階段をあがった神社が避難場所になっていたのだが、面倒がり避難訓練をしても人が集まらず、避難場所を下に移してしまったため、避難場所に集まったにもかかわらず被災した人がいたそうである。判断ミスが大勢の人の命を奪ってしまうのだ。

 その後は、徒歩10分の所にある大船渡屋台村「中村」にて食事を取る。どこの店もいっぱい。3.11を前に街はにぎわいを見せている。

 

3月11日

大船渡中学仮設団地…30番 浄土寺にて法要に参加

…大船渡中学仮設団地にてご供養…23番 田端観音堂…19番 稲子沢観音堂

 大震災からちょうど一年。亡くなられた方の一周忌である。町中が悲しみに満ちていた。 6時起床。近くのローソンにて天ぷらそばを食す。コンビニ至近で極便利。8時半に出発し、大船渡中学仮設に向かう。まずご挨拶、そして「黒潮レディース」の方々と歓談。神戸の「たすきプロジェクト」が、南相馬と大船渡と神戸を映像で結ぶべく作業中であった。浄土宗僧侶の井上さんが稚内のお菓子を大量に持参され、児童養護施設勤務の方とともに登場。それから淑徳大学のお二人も合流した。

 しばらくよもやまばなし。平山さん曰く、「すでにチラシを回し、1時から集会所で亡くなった方に手を合わせる会を行うことになっている」。急遽予定を変更し、浄土寺での法要の後、大中仮設に帰ってくることとする。児童養護施設勤務の方が奨学金について相談に乗っている。10時15分発。高田に着くと、津波で流された広大な荒れ地のここそこに花が手向けられ、黒い服を着たご遺族達が手を合わせている。県内外あちこちにお住まいの方々がこの日のために帰ってきたのだった。美しい花がまた寂しい。11時の法要ギリギリに到着。浄土寺には本堂に入りきらないほど大勢の人が集まっていた。

 昨年10月初めて訪れた浄土寺は、本堂の入口がブルーシートでふさがれ、観音堂は波で一度持ち上げられたためゆがんでいるうえ、後ろから骨壺が飛び出していた。庫裏も残ってはいるものの床上まで水が入り、荒れ果てている様であった。本堂の前の枝振りの立派な松の木も波で運ばれたがれきに痛めつけられたのか、枝も折れている。向かいの公務員住宅の二階の窓には、太い木が突き刺さったままだ。しかし、今回、本堂の回廊も整い、周囲には新しい戸が入って いた。ゆがんでいた観音堂が元通りになり、山門も改修されていた。駐車場で大中仮設にて黒潮レディースの一人と出会い再会を喜んだ。浄土寺さんの檀家だそ うだ。親類を含め5名が亡くなったという。「思い出すと涙が止まらないから、こっちで涙を流して仮設に帰ったら笑顔でいなくちゃ」といった。

 

 本堂は大勢の人であふれている。椅子を前に詰めてもらい、あるかぎりの座布団を敷いても入りきらない。やがて、浄土宗の青年会の方々、浄土寺のご子息らで読経が始まった。亡くなった方の名を10名ずつ読み上げ、それぞれ十念をお唱えする。亡くなった方の数280名以上。その後、そこにいた方々すべてでお唱えするお念仏の声が響いたとき、それぞれの悲しさが堂内に充ち満ちていた。最後にご住職からご挨拶があったが、「この一年の皆様のご苦労を思うと涙が止まりません…」と言葉に詰まる。それぞれの哀しみが交錯し増幅し、嗚咽の声が聞こえた。この日は、一つの区切りではある。ご住職は、はじめこんなに人が集まるとは思っていなかったという。しかし故人への思いがこれだけの人を寺に足を運ばせた。法要終了後、雪が盛んに舞った。なごり雪か、涙雨か。すぐに晴れ間が顔を覗かせた。外国のメディアも入り、インタビューをしていた。

 急ぎ引き返し、1時前に大中仮設集会所に到着。子どもからお年寄りまで総勢40名以上も集まってくれた。珍しく男性の姿も混じっている。1時半より市の 合同慰霊祭が行われるのだが、お年寄りだけで車がない方、喪服も流され黒い服がない方、また大勢の方の前に出たくない方、それぞれの事情があるのだろう。 黒潮レディースメンバーからは、こんなに年齢層が幅広く、かつ大勢の方が集まったのは初めてだという。1時過ぎに海の方向を向いて皆でお念仏をお唱えす る。30分ほどお唱えしただろうか。号泣している人がいた。いままで考えないようにしてきた従兄弟のことを思い出したら、そうしたら、次から次へといろいろなことが思い出されたと言う。他の人も、いつまでお念仏が続くのかとも思ったけれど、なくなった方のことをいろいろ思いだした。皆で声をそろえてお念仏ができてとても良かったと喜んでくれた。皆で一心にお念仏をお唱えした一体感が心の壁を溶かし、亡くなった方々に、そしてこの一年の生活に心を向ける支度ができたのだろう。

 その後、あんころ餅をみなでいただいた。餅は大晦日に来たキリスト教の団体にいただいた物、餡はカモメの卵の斉藤製菓につとめる方からもらった物だそうだ。予想以上に人が集まり、追加で餅を焼くのが大変だった模様。それから一時間くらい歓談。義捐金はすべて香典で無くなってしまうこと、仮設団地をいつかは去らなくてはならないものの、これから一人二人と抜けていくことを考えると寂しいことなどを話す。

 ある方がインタビューされた新聞記事から。自営業の家に嫁ぎ、夜中の一時二時まで働いても姑からはありがとうの一言もなく、夫や息子と楽しげに話していると姑は苦々しそうな目でにらみつける。家に居場所が無く、精神安定剤を服用するまでになってしまう。津波で家が流されて行くのを見て、悲しいと思う反面、自分を縛り付けてきた家が無くなっていきほっとした自分がいた、と記されていた。仮設に入った彼女は、生まれ変わったように生き生きと活動する。以前を知っている人から人が変わったといわれ、いつしか薬も不要となったという。重い話だ。

 

 仮設を3時に出発。井上さんらと分かれる。淑徳大学のお二人とともに、大船渡市赤崎町大洞の23番田端観音堂に向かう。対岸にそびえる太平洋セメントの脇を通り陸前赤崎駅に向かう。ここも海から近いため津波の被害が大きい。道路から高台にあるお堂を発見する。お堂への登り道にあるフェンスが津波でなぎ倒されている。あと1mでお堂まで達しただろう。向かいにあるはずの別当志田家は跡形もない。お堂は二軒四方、電気が通っており近所の方々の集会所にもなっている模様である。18日がご縁日で人々が集うそうだ。鍵がかかっているため、お堂の前でお勤め。近所のお宅を訪れ管理者の方の住まいを尋ねたところ、近くの仮設にいるとのこと。お尋ねしたがいらっしゃらないようなので、趣意書と名刺、お菓子を置いておく。ここで、お二人とはお別れ。

 

 あともう一カ所は大船渡市猪川町久名畑の19番稲子沢観音。盛に向かう国道を進み三菱ふそうを左に入ると「稲子沢」と記される門柱がある。そのお宅の庭に観音堂があり、「稲子沢観音」の標柱がある。小さなお堂には、現当主が自ら彫った観音様が祀られている。お経をお唱えしていると、家の方がお堂の扉をあけてくれた。このお宅は昔、東北の大長者として名を響かせたという。京仏師に依頼し作成した百観音像(西国、板東、秩父札所)は現在、「えさし郷土文化館」に保存されている。屋敷の中には稲荷神社もあり盛時の名残を留めている。丁寧にお参りのお礼を述べられ恐縮する。堂内に観音様のお姿のスタンプがある。

 この後は、本屋を2軒巡り気仙三十三観音霊場についての資料を探したが皆無であった。夜は屋台村の「鰣不知(ときしらず)」にて夕食。被災地振興に協力しようと、今日も沢山飲み食いする。

 

3月12日

2番 金剛寺…1番 泉増寺…6番 馬頭観音堂… 圓城寺…7番 観音寺

…10番 正覚寺…麟祥寺にて伝承念仏を習う…リアスホール内の図書館で資料収集

 6時起床。7時大船渡ジョイスに今井夫妻、金田さんを迎えに行く。丁度夜行バスが到着したところ。眠そうな3人を乗せ、いつものローソンで朝食。

 この日はまず気仙川右岸にある2番金剛寺に向かう。金剛寺はもろに津波が押し寄せ、本堂及び庫裏全壊。『祈りの道』に掲載されている大きな本堂は跡形もない。入口にあった成田山の大きな石碑が横たえられている。他の石仏・供養塔などあちこちに倒れたままである。高台にある不動堂は難を免れている。西国観音札所の石像を見ながら、不動堂に向かう。高台に仮設団地がいくつか建っていた。不動堂にはいると、朱印の印、老眼鏡、朱肉、のりが箱の中に入っていた。堂内で声高らかにお勤め。お堂の前からは、高田の町が一望できる。気仙川右岸にはおよそ八百戸の家があったというが、いまはまったく何もなく土がつづくばかりだ。階段下には、仮設の休憩舎がある。ご住職は、圓城寺にお住まいであり、連絡先を記したボードがかけられてあった。

 

金剛寺の不動堂前から撮った震災前の風景
金剛寺の不動堂前から撮った震災前の風景
同じ位置から撮った震災後の風景
同じ位置から撮った震災後の風景

 次はすぐそばの1番泉増寺へ。金剛寺の住職が兼務している。管理人の方は不在。子安観音堂は津波にさらわれてしまい、簡単な囲いがあるのみ。囲いの中には、岩の間に花崗岩を挟んだ奇岩が鎮座している。子安観音は、この石から出産をイメージしたがゆえにできたものだそうだ。高台の観音堂に向かう階段は数年前に改修されたものだが、手すりはなぎ倒され、側面は津波で削られてしまっている。階段を上りきると立派な藤棚がある。観音堂は3間四方の立派なもの、鍵がかかっておりあいにく中にはいることはできなかった。外でお参り。

 

 次は陸前高田市矢作町方地家にある6番馬頭観音堂に向かう。道路の向かい側の高台にお堂が見える。近くに車を止め線路をまたぎ一度下ってから急な階段を上っていく。正面には駒形神社と馬頭観音の二枚の扁額が掛かっている。お堂脇には憤怒形の馬頭観音の石像がある。階段脇の山道は昔、大勢の人が馬に乗って蹴上がってきた道だという。昔は荷物の運搬や農耕に不可欠であり、馬は欠くことのできないものであったのだが、いまは村から馬の姿は消えてしまった。往時は大勢のお参りを得たお堂であったのだろう。管理者の方を尋ねると、普段は千葉に住んでいるという息子さんが出てこられた。活動趣旨を説明し連絡先を伺う。牛頭と記されたスタンプがあり、駒形神社のお札を頂く。


 それから金剛寺小林住職が現在住んでいらっしゃる陸前高田市矢作町の圓城寺に向かう。法事前のお忙しい折お話を伺う。お部屋に上がらせていただく。札所寺院の住所等の一覧表を頂戴し、ゼンリン住宅地図を購入すればスムーズにお参りができるとのアドバイスを頂く。真言宗智山派のお仲間の方にも観音霊場にかかわる資料をお持ちかどうかお声掛けいただいたようでありがたい。金剛寺の観音様が泥の中から発見され、無事修復も済んだとのことで、拝見する。それまでは秘仏であったそうだが、写真を撮らせていただく。光背や手の一部など修復したところがはっきりと分かる。よく泥の中から現れてくださった。美しいお姿に感動する。

 

 国道を少し走ると気仙三観音のひとつに数えられる7番観音寺に着く。ご挨拶をすると部屋に通されいろいろお話を伺う。ご住職は、カウンセラーとしても活躍されているとのこと。陸奥国分寺に長い間おつとめなさっており、山伏でもある。朝のお勤めには太鼓をたたいてお祈願をなさり、表で法螺貝を吹き、7時には鐘をつくとのこと。精力的なご住職である。この寺は大同二年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、多くの方が亡くなったため、観音堂を建てたのが由来という。お堂には秘仏の十一面観音が祀られている。ろうそくを付けていただき、荘厳な雰囲気のもとお勤めをする。本堂の中に小さな剣が多数奉納されているのは、戦争時の祈願だそうだ。住職は法螺貝の音を聴かせてくれたばかりでなく、我々にも吹かせてくれた。金田さんはなかなか良い音を出していた。本堂の屋根は天然スレート葺きの瓦で珍しいとのこと。見所多いお寺であった。

 

 次に陸前高田市竹駒町仲ノ沢の10番正覚寺に向かう。浄土寺のご住職が兼務されており、ご法事はこの寺で行われているとのこと。ご本堂にてお勤め。左の床の間に正覚寺の観音様と浄土寺のお不動様が、右の部屋に浄土寺の観音様が祀られている。

 

 2時に大船渡市末崎にある麟祥寺にて伝承念仏をならうことになっているので、大船渡に戻る。いつものお魚センターにて昼食。10月に来たときは、干物と味噌漬けの魚しかなかったが、12月に来たときはサンマが売られておりちょっとうれしくなり、今回は、カレイや鱈など数種類の魚を売っていた。初回はラーメンのみ、前回は鯖味噌定食が加わり、今回は牡蠣フライ定食が売られるようになった。麟祥寺さまに2時少し前に到着。佐々木さん、平野さんに節のついたお念仏を教えていただき、ビデオで記録を残しておく。普段耳慣れない音の変化でなかなか頭に入っていかない。ともかく最初の一行は覚えようと言うことで「帰命遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」はなんとかお唱えできるようになる。集落ごとにお唱えする部分や節回し、言葉が微妙に違うそうで、一緒にお唱えすると合わない部分があるという。麟祥寺さんは一時150名を越えるご詠歌講があったそうで、全国大会にも出たほど盛んであったそうだ。とても澄んだ声であった。2時間教えていただく。ご住職に大変お世話になる。

 

 昼は暖かく晴れていたが、表に出ると雪が激しく降っている。大船渡リアスホール内の図書館に向かう。吉水さんと福田は大船渡市役所観光課に挨拶に行き、これからのご協力をお願いする。図書館にて合流。郷土資料室を中心に気仙三十三観音に関わる資料を探す。根来広範師の本はあったが、すべてコピーできず。一度宿泊所に帰り、荷物を下ろして屋台村に向かう。先ほどの雪のせいか屋台村はがらがら、いつもいっぱいのこぢんまりとした「あげは」にて夕食。屋台村は三軒一緒でないと銀行はお金を貸してくれないとのこと(確かに屋台村は3軒長屋が多い)。お客さんと大いに盛り上がる。

 

3月13日

22番 長谷寺…20番 舘下観音堂…大船渡中学仮設団地…24番 熊野神社熊野堂

…東海新報社…陸前高田市役所観光課…32番 坂口観音堂…光照寺…平憲書房

 6時起床。常の如くローソンにてそばうどんの朝食。月見うどん、カレーうどん、かき揚げそばなど。

 この日はまず大船渡市猪川町にある22番長谷寺へ。この寺は坂上田村麻呂が討ち取った鬼の首塚に由来し、「気仙三観音」の一つに数えられている。平安時代の創建。立派なお堂の中に入ってお参りすることができた。立派な厨子が印象深い。また938年前に描かれた絵馬が掲げられていたが、あまりの古さに驚く。本堂の扉は朝に開けた様子。近隣の方で管理されている方がいるのだろう。本堂脇には収蔵庫があり十一面観音が収められているとのことだが、今回は見ることができない。本堂裏には板碑が7基立っている。最古のものは鎌倉時代。

 

 裏道を抜け、猪川町久名畑の20番舘下観音堂へ。近くのコンビニに車を止める。昨日伺った稲子沢観音の近く。国道に面したお宅の敷地内に、ガラスの鞘堂に覆われた観音堂がある。門扉を開けお堂の前でお勤めをしていると、お堂の扉を開けてくれた。今お住まいになっているのは、管理人様の妹さんにあたるご夫婦である。津波の被害に遭われ、軽トラックで命からがら逃げたそうだ。仮設住宅とちがい、様々な支援はほとんど来ていないとのこと。年末にNPOの方から年越し蕎麦とおせち料理を持ってきてもらったときは本当にうれしかったという。「前向きに頑張っている人を見ると素晴らしいと思い、できれば自分もそうありたい。でも、78歳。もう年ですから頑張れません。こうして津波から逃げおおせたことが頑張ったとことなのではないか。若い人が亡くなってしまったのに私が生きていた申し訳ない。しみじみ孤独を感じる今日この頃です」、と語ってくれた。管理者方は稲子沢家の流れだそうで、いろいろと盛時の稲子沢についてお話し下さった。

 

 一昨日、大船渡中学仮設を尋ねたが、再び9時過ぎにお邪魔することになった。揚げ玉入りの煮豆腐をご馳走になった。

 10時半に出発し、末崎町の24番熊野神社に向かう。近くにもうひとつ熊野神社があるので注意。私たちも間違えた。昨日伺った麟祥寺さんのすぐそば。海からもすぐ。鳥居脇の魚やさんのおばさんとお話しをする。家の2階まで津波がきたそうで、確かに家を見ると物干しの手すりが曲がっていた。目の前にも80数件という家があったというが、今はその土台を残すのみ。ガランとしている。熊野神社は社務所が流されてしまった。現在、神社の奥様は仮設住まい、若い神主さんは、町で働いているとのこと。本殿の左にある客殿に観音様が安置されているようだが、今は物置のようになり、様々な家財道具が詰め込まれていた。

 

 1時に東海新報社の 佐々木克孝さんとアポをとっているので、急ぎ戻り昼食とする。近くの喫茶「ポートハウス」で海鮮ラーメンを食す。一時少し前、東海新報社を尋ね、佐々木さ んにお会いする。活動の趣旨を説明すると好意的に捉えていただいたように感じた。『祈りの道』執筆の経緯や稲子沢のこと、一昨年、陸前高田市観光課が出し た「気仙三十三観音祈りの道探訪」マップを作成したときのこと、増刷したところ納品後数日にして津波に流され手元には1部しかないことなどをお話し下さ り、一部コピーを頂いた。今回の調査のひとつの目的であった地図を入手。『祈りの道』の最後の一部を購入することもできた。是非震災後の観音霊場を歩いて 改訂版を出したいが、今はいろいろやることがあって…という話であった。ゆくゆく話が進めば霊場の案内書も必要になるであろう。

 

 光照寺さまとの待ち合わせまで時間があるので、陸前高田市役所観光課をお尋ねすることとした。企画部商工観光課の佐々木さんは、以前観光協会にいた際、「気仙三十三観音祈りの道探訪」マップ作成にかかわったそうだ。観音霊場についていろいろご存じであり心強い。

 

 少し早かったのだが、陸前高田市高田町の32番坂口観音堂に向かう。光照寺さんの参道である坂の入り口にあったので坂口観音堂というそうだ。この辺りは津波の被害をもろに受けているところであり、近くに着いてお堂がどこにあったのか分からない。車を止め、散歩に来ている方にお尋ねすると、「ちょうど近くまで行くので一緒に行きましょう」とのこと。ありがたい。もう一本向こうの谷の入口にお堂跡はあった。道々お話しを伺うと、一人の方はお母さんと二階にいたとき津波にさらわれ、家ごと流されたものの、一キロ向こうまでそのまま流され助かったという。この家は、寝たきりのお母さんを見捨てていけず、ふたりとも亡くなった、とか、この家はお嫁さんが学校の先生をしていたので、家にいなくて助かったとか、「百人いれば百通りの物語があるんです」という言葉が印象的だ。少し高台のお堂の跡地には大きな石に彫られた六地蔵やら石仏やらがあり、信仰を集めた地であったことが分かる。線香を土に立て大きな声でお勤めをする。同道いただいた地元の方二人もともに祈りを捧げてくれた。お一方が、津波以来一度も涙を流したことがなかったのにどうしたのだろう、と悲しみを絞り出していた。

 

 坂口観音堂を管理している光照寺さまに伺い、檀信徒会館にてご住職と檀家の方々にお話しを伺う。光照寺では10月くらいからボランティアの方々の宿泊のお世話をしているとのこと。板張りの広いホールには、米や調味料、缶詰などが棚に入っており、新たに作られた二階部分が就寝スペースになっている。定期的にいらっしゃる難民支援センターのボランティアのメンバーの顔写真と感謝の気持ちを添付されたノートを拝見した。ご住職は、震災当時、講習で他所におり必死で自坊に帰ってきたが、奥様、娘さんの行方が分からず、何かをすることも、何も考えることもできなかったと訥々と語ってくれた。震災後のお堂の状況を写した写真を拝見したが、津波に持ち上げられ半壊してしまっていた。しかし、堂内にはいると、誰かが直したのか、観音様がお立ちになっていたという。ご本堂で修復成った端正な観音様を拝見した。ゆくゆくは境内に観音堂を再建予定ということで、その旨を記した張り紙もあった。また、今回の目的の一つになっていた『気仙三十三観音』(共同印刷企画センター発行2004.11)を二部頂戴した。ありがたい。

 

 一通りの予定を終え、竹野さん宅にご挨拶にうかがったが、並びの古本屋「平憲書房」店主平山憲治さんが郷土史家として著名な方であると教わり、ご紹介いただいた。とりあえずご挨拶のみ。今後は事前連絡が必要とのこと。

 風呂に入ることとなり、ホテルオーシャンビュー丸森に行く。500円宿に近くてよし。その後は、屋台村にて「らんぷ亭」貸し切り。今夜も復興支援だ。

 

3月14日

21番洞雲寺…29番 普門寺…NPO夢ネット大船渡…長圓寺…27番常膳寺

…三日市公民館

 6時起床。ローソンで朝食後、部屋の掃除。竹野さん宅に挨拶に伺い鍵を返却する。お礼を申し上げ21番洞雲寺へ。大船渡市役所の向かい。鬱蒼たる杉木立の参道を少し登ると稲子沢家寄進の竜宮門がある。お参りの多いお寺なのだろう、辺りには石仏が沢山祀られている。正面には大きなご本堂。左手の高台に観音堂があり、28体の観音様が祀られている。堂前でお勤め。その後、ご住職をお訪ねする。気さくなご住職で、活動趣旨をお話しすると、理解を示してくれた。門の入口に大震災でなくなった方を弔うため大きな観音像が建立されていた。ここでもお勤め。

 

 そして、再び高田へと向かう。氷上本地堂の予定が、29番普門寺前を通過したため、まずこちらへ。長い杉並木の参道の脇を走り、駐車場へ車を置く。こちらも立派なご本堂だ。左手の高台には、大仏様と三重塔がありその向こうに土蔵作りの観音堂が見える。三重塔は気仙大工の技術の粋が凝縮したもので、大工さんらが見学に来ていた。いろいろお話しを頂いた。中学を卒業してから、親方のところへ見習いに入り、掃除や材料を運ぶという仕事から始まり、先輩の技を盗み一人前になっていったという。「職人というのは上下のつながりはあるものの、横のつながりが弱いため、これからは皆で力を合わせこの技術を後世に伝えていきたい」と述べられていた。名刺を頂いた方は、気仙大工左官伝承館の館長を勤められている佐藤さんという。もし、流されたお堂を再建しようと言うことになれば、気仙大工の方々の力を借りることになるかもしれない。ありがたい出会いであった。ご住職は、ここで体調を崩されたとのこと。なんとか3.11の法要までは…と張りつめていた気ががっくりとなってしまったのかもしれない。

 

 これから盛に戻り、NPO夢ネット大船渡を尋ねご挨拶。復興新聞を定期的に出されている団体である。

 またまた、高田に戻り長谷寺のご住職が住む気仙町丑沢の長圓寺に向かう。あいにく東京へ用事があり不在であったが、奥様が応対してくれる。要害観音堂の息子さんは世田米でラーメン屋さんをやっているとの情報を頂く。同級生だったり檀家であったり、さまざまなつながりが濃厚で助かる。

 あと一寺お参りをしようということになり、気仙三観音のひとつ27番常膳寺へ向かう。途中海岸沿いの道は、防波堤が破壊されたところあり、土の道ありでガタガタ。線路も盛り土が流され寸断されている。瓦礫もまだ残っていてダンプが走り、撤去作業をしている。どこまでが町でどこまでが田んぼか見分けがつかない。

 

 途中三日市で金田さん、今井夫妻を下ろす。三日市念仏の記事が「東海新報」に載っていたので、伝承している人を探しに行くという。吉水さん、福田は 常膳寺へ。箱根山の登山口にある常膳寺は深閑とした木立の中にあり、手前に本堂、奧に観音堂がある。お堂の中は暗くてよく見えないが、写真を撮ってみる と、お前立ちの大きな千手観音が写っていた。長い年月多くの方にお参りいただいたお寺という風格が漂っている。

 

 

 携帯が鳴り、三日市念仏の伝承者の方にお集まりいただいているのですぐ来るようと連絡があった。いそぎ先ほどの三日市に戻る。修繕されきれいになった公民館でおばあさんたち4人が集まってくれていた。ビデオに取らせていただく。麟祥寺で聞いたお念仏と節回しは似ているもののどこか違う。身の回りでまだご遺体が上がらない人が大勢いるとのこと。昔からそういうとき、海に向かってお念仏をお唱えすると鈴の音と念仏の声を聞きつけて、ご遺体が上がってくると伝えられている。実際、翌日ご遺体が上がったそうだ。おばあさんたちは、無念の思いを残してあの世へと旅だった人と自分たちとが間違いなく伝わっていると実感しているのだ。津波の時は、高いところに逃げたが、堤防を波が越えたという声を聞き、さらに上に逃げ助かったという。チリ地震の時とは違い、波が杉の木をなぎ倒して迫ってくる様子は本当に怖かったと話された。

 

 お念仏の教本は写真に撮らせていただき、後にパソコンで打ち直して製本しお送りすることを約した。赤カブの漬け物、白菜とニンニク・生姜の漬け物、焼き芋などご接待いただく。どれも美味しい。表に出て道の際に線香を立て皆でお念仏。おばあさんたちは、我々の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。

 

 帰りには大関さんと落ち合い歓談の後、一路一ノ関へ。今回は20の霊場をお参りし、地図や本などの資料も入手することができた。なんといっても、ご住職、霊場を管理なさっていらっしゃる方だけでなく、行政の方、NPOの方など多くの方々とご縁を結ぶことができた。これらのご縁をいただいたことはまことにありがたい。わたしたちは観音様に導かれていると確信した。

                                                       (文責 福田亮雄)