《慶祝 立山観音堂落慶法要》
東日本大震災により気仙三十三観音霊場も大きな被害を受けました。被害の程度に差はありますが、その数8霊場。なかでも立山観音堂は、観音像、観音堂、別当家の住居が被災しました。震災から5年が経ち、この度、8月28日、立山観音堂が、海を見渡せる陸前高田市米崎町西風道(ならいみち)に再建されました。たいへんおめでたいことです。
立山観音堂は、周囲が児童遊園になっており津波の避難場所にもなっていました。津波が襲ってきたとき、近所の人はここ立山観音堂に避難をしてきました。
しかし、周囲を見渡せる場所であったため、海が黒く盛り上がり杉林をバリバリと音を立てて迫ってくるのを見て、ここでも危ないと必死に道を駆け上がったと伺いました。幸にしてここに逃げてきた方々は全員助かったそうです。しかし、観音様は流されてしまった。みなさん観音様は自分たちの身代わりになったのだと悲しんでいたと聞きました。
2014年6月16日のこと、岩手県・陸前高田観光物産協会のフェイスブックに「あゆみ観音プロジェクト」の記事が掲載されました。
奈良県当麻寺中の坊・松村院主の肝入りで、高田松原の被災松を材として「あゆみ観音」を製作、制作の過程で東大寺、興福寺、長谷寺など、およそ50カ所以上の寺院を巡り一人一彫り延べ5000人以上の方が結縁したということや、完成後は陸前高田市の金剛寺さまに納められることが記されていました。
金剛寺さまのご本尊如意輪観音像は震災から一週間後、がれきの中から発見されましたが、立山観音堂の観音様はいまだ見つかっていません。「あゆみ観音」を立山観音堂のご本尊にお迎えできないかと思い立ち、翌日松村院主に伺ったところ、関係各位の了解が得られれば異存はないとのこと。立山観音堂別当の大和田さんにおつなぎしたところ、ぜひにということとなり、数週間でトントンと話が進み、「あゆみ観音」さまを立山観音堂のご本尊として迎えられることになりました。
「あゆみ観音」は、当麻寺に伝わる国宝「当麻曼荼羅」を織ったといわれる奈良時代のヒロイン中将姫さまが観音さまに導かれたという故事になぞらえ、観音さまに手を引かれて歩きはじめる童女の姿をあらわしています。高田松原に遊ぶ天童女をイメージし、美しかった松原の勝景を胸にいだきながら、新たな"歩み"を進めていけるような、そんな愛らしくも力を与えてくださるような願いを込めて、「あゆみ観音」と名付けられたと伺いました。お姿は一歩前に進もうと歩き出しているお姿。東日本大震災で亡くなった方の霊を慰撫し、復興へと進む気仙の方々の手を引いてくれる、そんな観音さまです。
また観音堂の内陣の柱二本と観音様の背後の板などには、2013年の4月に行われた「善光寺出開帳 両国回向院」において立てられた回向柱が使用されています。
出開帳とはご本尊がいっとき他所へ移られ広くお参りしていただく行事をいいます。東日本大震災復興を掲げ、善光寺の出開帳が東京両国の回向院さまで行われました。
回向柱とは、境内に立てられた45センチ角に製材した高さ約10メートルの柱で、ご本尊の右の御手に結ばれた金糸が善の綱となって柱に結ばれています。柱に触れる人々とご本尊との仏縁を結ぶものなのです。お参りいただいた3万人以上の方の手が触れられ、多くの思いが注がれたものです。
回向柱の材は、陸前高田市気仙町の林より映画「先祖になる」の主人公の佐藤直志さんによって切り出されました。出開帳終了後、大切に保管されていた回向柱ですが、一部が腐ってしまったそうです。そこで善光寺様にご許可を頂き、「東日本大震災物故」「者之精霊追善菩提」「念仏衆生摂取不捨」と記される部分を切り観音様の背景としてお飾りし、中心は内陣の柱として使用、他の部材は線香や朱印用紙などを置く箱にと姿を変えました。
当麻寺さまが中心となって関西の方々5000人が結縁したあゆみ観音さまをご本尊としてお祀りし、お堂の一部には、両国回向院さまにおいて関東の方々3万人が結縁した回向柱が使われています。
日本各所広い広い地域の多くの方々のご縁が結ばれこうして霊場が再興されたということは、まことにありがたいことと感激いたします。
法要は、大和田家菩提寺普門寺さまが導師をお勤めになり、あゆみ観音をお預かりいただいた圓城寺さま、そして私福田が出仕いたしました。また普門寺ご詠歌講の講員の方々によりご詠歌を御奉詠いただきました。さまざまな縁に連なる方々が30人ほど集まり厳粛な中に法要が執り行われました。
毎朝、別当家の大和田さんによって、お堂の鍵が開けていただけるとのこと、多くの方々にお参りいただければと思います。