《一日徒歩巡礼と講演会》
10月8日
上野駅(8:02)…一ノ関駅(10:08)(10:20)…気仙沼駅(11:47)(12:10)…大船渡駅(13:27) …大船渡中学仮設住宅
小雨が多く、蒸し暑い秋彼岸であった。涼風はいつ吹くのかと心待ちにしていたが、気仙に着くとなんと寒いほどである。Tシャツで十分と思っていたので、もう一枚持ってくれば良かったと後悔する。
大船渡駅に着くと竹野さんが車で迎えに出てくれている。吉水さんは、民生委員の講習会の講師として大船渡市役所に向かう。我々は竹野邸でまったり。炊き出しについてお話をしたそうだ。
4時半頃吉水さん到着。大船渡中学校仮設住宅の集会所に向かう。この仮設も12月から解体工事が始まるため、集会所にご安置されている観音様を平山さんらが住む災害公営住宅の集会室にご遷座することになったのだ。
130世帯入っていた仮設住宅も、今や10世帯あまり。駐車場には車がびっしりと止まり人が盛んに行き来していたあの頃が嘘のようにひっそりとしている。
家々の入り口には空室の張り紙が。薄暮に訪れたためもあるが、物寂しい風情である。集会所のみ煌々と明かりがともっている。以前は写真や励ましの色紙が一面に張られ、テレビや本など備品が多くあったが、必要なところにもらわれていき、ガランとした雰囲気だ。
皆川さん平山さんら4名と法要を行う。観音様の埃を払い、光背の銘木を毛布にくるみ、賽銭箱や燈明、木魚などを車に移す。仮設はまさに仮の住まい、長くあってはならないもの。でも全てが撤去されてしまうと思うと、この5年が無かったことになってしまうような気もしてどことなく寂しい。薄闇の中、大中仮設を後にする。
災害公営住宅は、一室が集会室に当てられている。かなり広い。大きな台所もあり今も様々な支援が入り、イベントが行われているようだ。海の方角に机を置き観音様を据える。もう一度法楽を捧げる。お住まいの方が8人ほど集まってくれる。ゆくゆくは平山さんの土地にお堂を建てて多くの方にお参り頂こうと考えているとのこと。また、お参りに伺うことを約し、大船渡温泉に向かう。
大船渡温泉は三連休の初日ということもあり、駐車場も風呂場もすごい混雑。30分程度でちゃっと入り、屋台村「天使の森」へ。森さんが待っていてくれる。向かいには群馬からいらした親子連れが。サンマの甘露煮、山かけ、ひいかの煮物、ポテサラ、タマネギリング揚げ、あぶりチャーシュー、最後は富士宮やきそばで締め。小鉢で出していただいていろいろ食べられた。ここも来年3月までという。新設のビルは家賃が高く入れないとのこと。お店がぐっと減ってしまうのだろうか。
10月9日
竹野さん宅…陸前高田コミュニティーホール…〔9時開館、10時より法話30分、「延命十句観音経」写経、読経終了後昼食〕…一日徒歩巡礼出発(11:40)…羽縄観音堂…正覚寺…延命寺…竹駒駅解散(14:10)
6時起床。今日は大船渡さんま祭りが行われる。朝は港の方面を1時間走る。昨晩は大変な雨だったようだが、寝ていて全く分からなかった。屋台村の脇を通り、BRTを越えてかさあげ成った沿岸部を走り、魚市場に到る。日曜日は市場の食堂はお休み。担当の方がサンマ祭りの幟を立てていた。広い空のもと下船渡駅まで走り戻ってくる。
ストレッチをしているとみなさん起床してくる。荷物を整え出発。この日は竹野さんより軽自動車をお借りした。いつものローソンでそれぞれ朝食を購入。八木澤商店の味噌焼きおにぎりとホタテバターのおにぎり、温めてもらうとうまい。高速に乗って高田へ。
8時45分に着いてしまったので、観光物産協会にご挨拶。陸前高田市ユルキャラ、ゆめちゃん缶バッチ購入。
陸前高田市コミュニティーホールは9時開館。立派なホールが完成した。中会議室をお借りした。正面に持参した観音さまの掛け軸をお掛けする。藤澤さんがマイクスタンドを上手く使って掛ける手だてを講じてくれる。入り口のドアには、観音さま幟を目印に掛けてくれた。
机の上には延命十句観音経の写経用紙、筆ペン、経本、霊場マップ、観音様缶バッチを置いておく。参加者は15名、「東海新報」にて記事を掲載していただいた。それまでの申込みは3名というので効果は絶大である。参加者の中には、活動でいつもお世話になっている方、もう4回目になるのでリピーターの方も数名いらっしゃる。たいへんうれしいことだ。9時半頃から少しずつ集まってくる。
定刻5分前からスタート。福田より挨拶の後、「食作法のこころ」という題で30分程度お話しをする。環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが世界に発信した「もったいない」=「MOTTAINAI」という語をキーワードに、身近な食の「もったいない」エピソードをいくつか取り上げた後、修行中に食事を取るとき皆でお唱えする食作法の言葉について解説した。
「仏道を成ぜんが為なり、世報は意にあらず」の意は、「食事を頂くのは、自らを利すばかりでなく、他人のために働くことができるためということであり、「いただきます」という言葉のように食物に敬意を持って頂戴しなければならないとまとめた。
次に「延命十句観音経」の写経である。「般若心経」はポピュラーであるが、時間がかかるので短い「延命十句観音経」を選んだ。シンとした中、心を集中し筆ペンで熱心に動かされていた。終わりに名前、日付、願意を記していただいた。
ここまでで予定より早く50分程度なので、吉水さんから「巡礼のしおり」の解説と経典読誦の練習を行う。スマホにチーンという鐘の音と木魚の音が出せるアプリがあるというのには驚かされる。皆で観音様に向かい法楽を捧げる。最後にそれぞれのお名前及び願意を読み上げご祈願をする。厳粛な雰囲気のもと前半が終了。昼食休憩。みなさんに昨日森さんに頂戴した「なべやき」をお渡しする。「久しぶりになべやき食べた」と喜んでくれる人が何人もいた。
予定を早めて12時45分。集合。荷物を車に積み込み幟を先頭に出発。総勢13名。国道に出ずにすぐ左に折れ坂を下っていく。もともとあった道だそうだ。
四国遍路に行きたいという方有り、通しで歩いたという方有り。東北の方にとって四国は遠い。でも四国へ向かわせる強い思いがあるのだ。
トンネルをくぐり国道に出るとすぐに羽縄観音堂。観音堂の直前で津波がぐるっと転回してお堂は無事であったこと、しかし別当家は被災したことをお話しする。お堂前で御法楽。みなさんいろいろお話ししていると何らかの縁で繋がっていることがわかってきた。娘同士が同級生であったり、実家が近かったり、働いていた会社と付き合いがあったり、盛り上がってお話ししている。とてもはじめてお会いしたという雰囲気ではない。巡礼は農繁期が終わった後、慰労も兼ねた楽しみとして歩いたものだという。まさに楽しくお話ししながらというのがひとつの姿なのだろう。
国道をすぐ右に折れ正覚寺へ。本堂に上がり左の部屋の床の間に気仙の観音さまが祀られている。今までいろいろな道具やらが置かれていたが、すっきりと片付けられ正面からお参りできる。ゆっくりと読経をする。多くの方がご詠歌は初めて聞くとおっしゃった。
「きらめき大学のバスツアーで気仙三十三観音をお参りしたとき、ご詠歌をお唱えしなかった。とてもいいものですね」と。昔はお通夜において僧侶が来る前にご詠歌講のおばあさん達が数珠繰り念仏やご詠歌を奉詠したものだという。今は講もなくなりつつあり、なかなか耳にする機会が少ないのであろう。「正覚寺に法事できたことはあったけれど、本堂の中などあちこち見たりしないので観音様に気付かなかった」という方がいる。確かに法事ののち、本堂をうろうろしている人はまあ眼にしない。
ちょうどこの日は、すぐ隣にある荘厳寺本堂の落慶法要に当たる。荘厳寺は東日本大震災で住職が犠牲に成ったうえ、2014年1月には漏電による火災で本堂・庫裡が全焼。檀信徒と全国の浄土宗寺院のご寄付などによってこの度無事再建を果たした。
法要を終え、祝宴が続いているとき、本堂前で法楽を捧げる。本堂から出ていらした檀家の方々に「おめでとうございます」と祝意を述べるとニコニコ笑顔で「ありがとうございます」という言葉が返ってきた。本堂前の立派な枝ぶりの松の木も火に負けず力強く葉を茂らせていた。
荘厳寺を後に延命寺に。メンバーが替わりつついろいろな人が語り合っている。みな楽しそうだ。延命寺の本堂左の床の間に観音様が祀られている。背景に釈迦涅槃図が張り巡らされており、立派な十一面観音さまは大きな切り株を台座としている。なんとも風格のある仏さまだ。みなさん感動していらっしゃる。
ご住職にもお会いできた。法楽の後、ひとことお礼の挨拶をする。「みなさん、巡礼は楽しかったですか」と伺うとうなずいている方多数。亡くなった方への慰霊の思い、同行の人との出会い、地元の観音様への祈り、歴史の発掘などいろいろな意味合いを抱え持つ巡礼、また参加をしてほしいということをお話しする。
歩きながら津波の時のお話を伺った。陸前高田のプールから避難するとき、高校生と眼があったのだが、その子は亡くなってしまったという。その顔がいまでも忘れられないと。話せばあのときの風景がありありと浮かんできてしまう。しかし話さずにはいられない。巡礼とはその話が出来る場なのだ。ただただ手を合わせ読経する行為の背後にはいろいろな思いが去来しているに違いない。
矢作に住んでいる方に馬頭観音堂のお話を伺った。子供のころは馬を飼っている農家も多く、縁日ともなるとすごい人で、のぼりがたくさん立ち階段の下には焼き鳥屋台が出て楽しみにしていたものだそうだ。ここ何年かは正月お参りに行っても戸が開いていないとのこと。お堂の羽目板が壊れたままになっていたのを思い出す。会で補修できないか考えよう。
竹駒駅近くの慰霊碑に心経一巻を捧げる。津波によって目の前に崖に多くのご遺体が寄せられたところであることをお話しした。
竹駒駅にて解散、14時10分。ほぼ予定通り。ほとんどの方はコミュニティーホールまで歩かれた。私たちは大和田さんに送ってもらう。軽自動車に乗り換え早々と大船渡温泉に。大船渡の海を眺めながらゆっくりと露天風呂につかる。
車を返し「やまちゃん」へ。5時スタート。カジキのハモニカ煮がお通し。さしみとカマ焼き、最後に巻物盛り合わせを食す。酒はもちろん「酔仙」。9時半まで粘ってしまった。帰ってからさらに反省を重ねたメンバーもいたようだ。
10月10日
竹野さん宅…大船渡駅…陸前高田コミュニティーホール大会議室(9:00)〔9時開館、9時半受付開始、10時講演会開始 12時終了 12時半撤収完了〕陸前高田駅発
6時起床。6時半より部屋のお掃除。てきぱきと掃除を終え、ローソンにて朝食。7時40分に鍵を返しに竹野邸に向かう。しみじみお庭を見るとキウイが鈴なりだというより庭がキウイに侵略されている。梅や松の木を覆い尽くし、幹は人の腰くらいある太さだという。生命力がものすごく強い木なのだ。
歓談した後失礼しようとすると、奥様が陸前高田まで送っていただけるという。甘えて高田へ。しばらく待ち9時に入館。もう常光寺さまのご詠歌の皆さんは集合していた。今回のためにそろいの作務衣を新調したそうだ。渋い色で趣深い。ホール前でパチリ。
大会議室には昨日ご詠歌用の机と椅子が搬入され並べられていた。前の3列を片付け、みなさんの姿が見えるようにする。プロジェクターを接続し、あらかじめ観音様のお姿を写しておくことにした。昨日お参りした延命寺の観音さまに決定。工藤さんが巧みに調整してくれる。一昨日講師の野坂先生よりレジュメを送っていただいたので、40部刷り、経本、バッチと共に机上に置く。果たして何人来てくれるのだろうか。
10時定時で開始。司会は吉水さん。まず、観音様に向かって全員で御法楽。そして私より気仙三十三観音霊場に関するニュースを報告する。
一つ目は第一番泉増寺の鋳銅製の本尊観世音菩薩立像について。奈良教育大学が文化財調査を行ったところ、10世紀前後の作であることが判明した。気仙においてこれまで判明している仏像の中では最古の物である。坂上田村麻呂伝説を持つ気仙三観音の観音寺十一面観音像が12世紀前後の作であることからすれば、泉増寺の観音像はぐっと古いことが分かる。すごい成果である。
二つ目は立山観音堂落慶について。米崎町堂の前にあった立山観音堂は津波避難場所に指定されており、ここに逃げてきた方は全員助かった。しかし、別当家、観音堂。観音像は被災した。この8月にアップルロード沿いの西風道(ならいみち)の海を見渡せる高台に再建された。ご本尊には、奈良当麻寺の肝いり、一人一彫りで東大寺、興福寺ら名だたる大寺を巡回し、5000人以上が結願し製作された「あゆみ観音」をお迎えすることになった。観音様の背後には、善光寺出開帳両国回向院で据えられた回向柱が製材され飾られた。
出開帳とはご本尊が出張され多くの方と結縁する行事。江戸時代以降盛んに行われた。この行事には、気仙からはがれきの中から発見された金剛寺本尊如意輪観音さまと要害観音堂の聖観音さまがおでましになった。3万人以上が手を触れた柱である。関西の方々と関東の方々の思いが合わさり立山観音堂が完成。ありがたいことである。
そして常光寺ご詠歌講のご詠歌御奉詠。みなさん緊張していらっしゃる。お願いしてから練習を重ねてこの日を迎えたそうだ。
直前に「心臓がどきどきする」と言っていた方は、入定和讃で頭を出す方であったことを知ることになる。でも堂々たるものであった。
曲は二曲。まず気仙三十三観音霊場第十七番常光寺のご詠歌を「木揚」の節でお唱えする。哀切を帯びつつも荘厳なしらべは聞く人の心を揺り動かしたであろう。
途中常光寺ご詠歌講の活動について述べられた。講員は13名で毎月二回練習をしているとのこと。葬儀、忠魂碑などへの供養のための法要実施、特別講習会の実施、ご詠歌検定にチャレンジ、奉詠大会に参加、観音堂周辺の草取りなど、今年は、外国人の民泊の際ご詠歌を披露したそうだ。気仙三十三観音巡礼も少しずつ行っていると聞いた。みなさん和気藹々と様々な活動に取り組み、生活のサイクルになくてはならないものになっているよう見受けられた。そして「弘法大師入定和讃」「花山」奉詠。終わった後ほっとした顔が印象的であった。
最後に、えさし郷土文化館の野坂晃平先生の「気仙三観音信仰の系譜」と題する講演である。
気仙と江刺を結ぶラインは、北と南を分ける「境界」と言える。平安時代には中央政権の前線基地、胆沢城が置かれ、後には鎮守府となった。また奥州市には大和朝廷の文化である前方後円墳がある。北には蝦夷と呼ばれる人々が暮らす。都とはアザラシの皮や鷹の羽、鉱山資源などの交易を行っていたが、なんといっても奈良の大仏を建立するとき、気仙から金が産出されたことが大きく歴史上に取り上げられるトピックスである。
気仙には聖のような宗教者も入ってきた。彼らは宗教的な役割を果たすばかりでなく、金採掘の技術、鉄加工の技術なども伝えたと考えられる。その痕跡として、神社、仏閣、寺社の縁起などが上げられる。気仙三観音は坂上田村麻呂が蝦夷の龍福、早虎、熊井という武将を討ち取った後、その地に観音堂を建てたという伝説がある。これは気仙の人々が中央の文化を受け入れたということの象徴なのではないか。
平安時代の十二世紀に栄えた奥州藤原氏は東北一帯を支配した。奥州藤原氏の文化と言えば世界遺産にも成った平泉中尊寺が著名であるが、東北各所に平泉文化が行き渡ったと考えて良い。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、藤原清衡が一万の寺院を建立したと記される。東北の文化を考える際も、平泉文化以前、平泉文化、それ以降と区分するのがわかりやすい。
気仙三観音のひとつ長谷寺には、まさに平泉文化の影響によって成った本尊十一面観音が伝わる。清衡建立の寺院の名残なのかもしれない。京都や奈良の仏像と並べても遜色ない、まさに当時最高水準の仏像と言える。また、長谷寺には、十二世紀以前の観音像が伝わっているし、十四世紀の板碑がたくさん残っている。これはずっと長い間、沿岸部の信仰の拠点として地元の方々の篤い崇敬を捧げられてきた証であろう。
常膳寺の三メートルを超える巨大な観音様は中世に再建されたものであり立木仏の趣である。長谷寺の古い観音像もそうだが、東北の地には装飾されない白木の像が特色である。これは木そのものに対する霊木信仰によるものではないか。
観音寺の十一面観音、毘沙門天、虚空蔵菩薩の三尊形式は、日本中を見渡しても類例が見られない。これは地域独自の信仰が醸成されていたことを示すものであろう。また近くから出土した渥美焼の壺は十二世紀の平泉文化がもたらしたもの。中には経筒が入っていた。これは当時末法に入ったという認識があり、実際、東北は前九年、後三年の役と戦乱の時代であった。よって五十六億七千万年後に下生する弥勒菩薩と結縁するため、経筒を土中に埋めたのである。この壺も当時の最高水準の品である。神社、仏閣、寺社の縁起に目を向けてみると、地元の歴史や文化に気づかされることが多い。
以上、野坂先生の講演の概要である。私から一つ質問。「常膳寺は縁起において十二世紀野火で焼失したとおっしゃいましたが、『気仙三観音』といわれるようになったのはいつですか」。答え「ぐっと時代が下ってからでしょう。江戸時代には言われていたと思います。もっと遡れる可能性もあります」とのこと。田村麿伝説がるということで、ずっと昔から「気仙三観音」があったと思っていただけに驚きだった。
盛会のうちに予定通り十二時に講演会終了。いそぎ会場を復元する。会場費は地元復興にかかわる行事なので不要だとのこと。ありがたい。
御詠歌の講員さんたちに巣鴨マルジの赤腹巻を贈呈する。光照寺さま、金剛寺さま、延命寺さま、園城寺さまをはじめ平山さん、新川さん、昨日徒歩巡礼に参加してくれた方など縁に連なる多くの方が参加してくれた。お礼申し上げたい。
帰りは、園城寺さまの車で立山観音堂に向かいお参り。以前のお堂にあった燈籠やお地蔵さま、石碑が移設され周囲に木が植えられていた。根付いて葉を茂らせ花を咲かせたら風光明媚なこの地と相まってさぞきれいだろう。三月の徒歩巡礼で訪れるのが楽しみだ。そのまま気仙沼プレハブ横丁まで送っていただく。
その一軒の「大漁丸」へ。カジキのハモニカ揚げ、かつおのハラスの塩焼き、カジキ刺し春巻きなど。酒は気仙沼の地酒、伏見男山と両国。ぐいぐい飲んでタクシーで駅へ。ハモニカとハラスとりわけ美味。屋台村も12月いっぱいで終わりだそうだ。新たにできる店舗は家賃が高く入れないとおっしゃる。
帰りの大船渡線。ガタンと動くと工藤上人おもむろにワンカップを三本ニコニコしながら取り出す。あらら、限界越えと思いつつ、不思議なことに一ノ関に着いたときには空いていた。新幹線は3連休のラストということで大混雑、しかし仙台で上手く座れた。
次回は十二月の「サンタが街にやってくる」に参加するため、気仙にやってくる。