期 間:4月17日(火)~18日(水)
4月17日 上野駅…水沢江刺駅…えさし郷土文化館…18番 坂本堂…17番 城玖寺 …16番 長桂寺…13番向堂観音堂…大船渡中学校仮設住宅 |
7時22分上野駅発。大船渡の予想気温は、15度。岩手の南国というだけあり東京と大して変わらない。東京では曇っていたが、仙台を過ぎ青空がいくらか広がっていく。9時40分、水沢江刺駅で下車、レンタカーを借りる。今回は、まず、「えさし郷土文化館」に向かう。19番 稲子沢観音が祀られている家、「稲子沢」は、江戸時代、東北の長者として名を馳せた。初代与次右衛門が西国三十三観音像を、三代利兵衛が板東・秩父の六十七体の観音像を完成させた。近在の人々が観音様のお参りに「稲子沢」を訪れたという。観音像は、明治になり「稲子沢」の手を離れ、今はここに安置されているのだ。駅から5キロ程度で「えさし郷土文化館」着。立派な施設である。入館料300円。館内には、古墳からの出土品、江刺地方の農業にかかわるものが展示されているが、なんといってもメインは、「奥の院」にある仏像である。坂上田村麻呂にまつわる平安仏のレプリカにも感心するが、なんといっても稲子沢百観音の荘厳さには心打たれる。ご本尊の大きさにも圧倒されるが、京仏師が趣向を凝らした百体の観音像の数々。よく見ると最初に作った西国の三十三観音が最も作りが良い。「奥の院」で般若心経をあげ、ここを後にする。およそ一時間の滞在。
車は住田町に向かう。昼食は要害観音堂を管理している熊谷さん経営のラーメン屋「味噌屋麺太」にて。混雑していたためとりあえずご挨拶のみ。
この日の初めての札所は、上有住の国道沿いにある、18番 坂本堂。少々迷ったが、鳥居と二股の巨木が目印である。大きな住宅の脇に愛宕神社と額のかかげられたお堂がある。堂内の正面には鏡が、左脇には観音様が祀られている。お堂にあがりお勤めをする。管理者の方にご挨拶に伺うとおばあさんが出てこられる。大変好意的に話を聞いていただきありがたい。つい先ほどから遠くでドンドンと音が聞こえていたが、あれは雷雨の前兆であったようだ。家を出たときから強い雨が降り始める。皆お堂の前で雨宿り。
小やみになったところをねらって、車に乗り込み、すぐ近くの17番城玖寺へ向かう。歩けば数分である。狭い橋を車でこわごわ渡るとうっそうたる杉の巨木に守られた城玖寺に着く。階段を上がると鳥居のような門が迎えてくれる。まずご挨拶をし、ご本堂にあげていただく。お勤め。お堂左には以前境内にあった大銀杏で作った釈迦如来像がある。残りの材木は、大きな机二つとなり、さらにまな板を作り檀家の方々に差し上げたとか。よほど大きく太い銀杏だったのであろう。その奧には閻魔様などが20体以上ある。時代かついているように見受けられた。長者屋敷の方からご寄進いただいたとのこと。雷鳴とどろき、フロントガラスの向こうが見えないほどの雨となった。
16番 長桂寺へお参りする。ご本尊の左に長桂寺の観音様が、右手には15番中清水観音の観音様がある。事情があり長桂寺で預かることになったとか。奥様から帰りがけに南部煎餅などたくさんお菓子をいただく。恐縮する。途中大粒の雹が車の屋根をたたく。ばらばらと音を立てて落ちてくる。豪雨の中を車は行く。もうひとつ、バイパス沿いにある13番 向堂観音堂へ。こじんまりとしたお堂が建っている。バイパスにかかったため、最近建て替えたとのこと。堂内に寄進者が記されていたが、3000円、5000円が集まってお堂が再建された。お堂は地元の人の心のよりどころ。多くの方々から広く広く力を貸していただいて、支えていくべき存在であろう。外は嵐、ゴーゴーと風の音、ザーザーと雨の音、それらと声高らかにお唱えしたお経の声が響き合う。反響する声に皆の気持ちがぐっと集中する。
そして、4時に常の如く大中仮設へ。黒潮レディースの面々が待っていてくれる。吉水さんが木造の観音様を集会所に寄贈。平山さんが頂いていた石造りのお地蔵様と合わせ開眼供養をする。賽銭箱、線香立て、線香など一式も持って行く。まったくもってそれらしい雰囲気となった。手作りの帽子を頂く。さらにすいとんと赤米のご飯。おいしくいだたき皆おかわり。18時、仮設発。嵐は通り過ぎ空が明るくなっていた。その後は風呂に入り、大関さんらと「山ちゃん」にて合流する。大関さんの事務所にて宿泊。
4月18日 28番 立山観音堂…27番 常膳寺…26番 小舘観音堂…9番 羽縄観音堂 …8番 延命寺…31番 氷上本地堂…三日市伝承念仏 |
6時起床。曇り。いつものローソンにてそばを食す。まず、お堂も観音様も流されてしまったという小友町28番 立山観音堂へ。高速道路を下り、高田の町に入る手前を左折、りんごの畑の中を行く。わかりにくいが、お堂跡らしきところに出たので、下りて確認すると立山観音堂の標石が横たえられている。建て替えられたばかりのお堂は、基礎と床板を残すのみ。あたりは児童公園だったのだろうか。遊具が放置されている。入口にあったであろう灯籠二基は、お堂の左と右とに津波によって運ばれてしまっていた。遠く海が見渡せる。ここも高台であるはずだが、津波はここまで押し寄せたのだ。お堂の前でお勤め。
近くの木工所のおじさんに管理者の方の居所を聞く。近くの仮設にお住まいとのこと。おじさんは、作業場は昨日から電気が通ったことを喜び、「借金ばっかり増えちゃって返せるのかね」と笑顔で話された。教えられた仮設にはいらっしゃらずもう一つ向こうの仮設にお住まいと分かる。親切に対応いただきありがたい。あいにくお留守だったので、趣旨を記した文と名刺、お菓子を玄関先に置き失礼する。
次は前回も訪れた気仙三観音のひとつで27番 常膳寺へ。吉水さんと私以外は初めて。車を下りると、参道の階段上に一対の狛犬のようにカモシカが迎えてくれた。近づいていくと悠々と山の中に入っていった。本堂前には根元の周囲10m、樹齢1000年という姥杉がある。県天然記念物。本堂は元禄年間の建造物で気仙大工の作だそうだ。辺りの深閑とした雰囲気にすっかり溶け込んでいる。ご本尊は秘仏で16年に1回ご開帳される。お前立には千手観音があるが、前回と違い、光背が取り外されたうえ、正面になく横を向き左手にある。いたずらされたか心配になり金剛寺さんに電話をする。本堂の右手には板碑が、左手の高台には阿弥陀堂がある。お寺のたたずまいに長い歴史を感じさせるお寺だ。
さらに26番 田束観音堂に向かう。山の中腹に見える赤い鳥居が目印だ。ここは、山の頂にあり下から歩くため、「難所」といえようか。といっとても10分程度ではあるが…。山裾には善性寺がある。お堂は集会所と一つになっている。金剛寺小林住職が兼務している。鳥居をくぐり、墓地を貫く参道を登っていく。すぐに杉林となりちょっとした登山気分である。電灯が敷設されているところを見ると、夜お堂をお参りする行事があるのかもしれない。ほどなくお堂が見えてくる。まわりの木々は伐採され明るい。堂内でお勤め。
もと来た山道を下り、広田の25番 小館観音堂へ。広田半島の先の方に向かう。高田高校広田校舎の脇を通り、道は海辺へと進む。海岸近くに岩がせりあがった台地の上にお堂が見える。参道がわかりにくく辺りをぐるりとまわってしまう。海辺にあるトイレ脇の歩道を上って行くと上部に神社が見える。その脇を少し下ると観音堂があり、前は広場になっており、その向こうはすっぱりと切れ落ちている。広く海が見渡せる。海にこれだけ近いのに、これだけの高さがあったが故、かろうじて流失を逃れたのだ。中に入ることができず堂前でお勤め。一段上には不動堂が、その前には大黒様の石像がある。地元の漁師の方々の無事を祈り多くの人々が祈りを捧げた霊地なのであろう。
車は高田の町を通り過ぎ気仙川をさかのぼる。陸前高田市役所に佐々木さんをお尋ねしたが、研修中とのことで不在。昼食場所を探す。竹駒のラーメン屋に入ることとする。二日連続のラーメンだ。油好きの今井さんは大喜びである。店のすぐ裏が9番 羽縄観音堂なので、お堂の扉を開けて、心経一巻のお参り。8番延命寺はすぐ近く。若い住職がお住まいのようで、子供のおもちゃなどがあったが不在の様子。どこかにお勤めなのだろうか。本堂に上がりお勤め。線香も勤行式も「ご自由にお持ち下さい」と張り紙がしてある。
次は31番 氷上本地堂へ。氷上神社の鳥居は地震の影響だろうか、ロープが張ってあり入れないようになっていた。途中から参道を歩き、社務所に行く。宮司さんは所用で不在とのこと、奥様がご対応下さった。本殿にご案内いただく。漁師の人は後ろの氷上山を目印に港に帰ってきたそうで、大きな氷上山の絵が奉納されていた。その他勧進帳の額、異郷で活躍されている方々が集う会の額など沢山の什物がある。神社を維持することの大変さをとつとつと語られた。外に出ると御輿蔵の屋根の葺き替えを行っていた。手前のお堂は、以前氷上山の中腹にあったお堂を下ろして再建したものという。本当は古材を燃してしまうはずだったのに、先代が譲り受けて建てたとか。今は観音様はどこにもないそうだ。それでも札所である。霊場とはなかなか懐が深い。いろいろ説明いただいたうえ、缶コーヒーまで頂戴し失礼する。
前回お念仏を教えていただいた三日市公民館に3時の約束である。先月お会いしたおばあさんたちが待っていてくれる。吉水さんが念仏のテキストを作ってお送りしたことを受け、また寄って欲しいと連絡があったそうだ。まず、海の見えるところでお念仏。この日は、牡蠣の種付け作業だったらしい。わかめの養殖の話や仕事の話をいろいろ伺う。せっかくなので、教えていただいたお念仏を皆でお唱えする。白菜の漬け物やきゅうりのしょうゆ漬けようかんなどなど、この日もまた美味しくいただく。すっかり盛り上がり、5時過ぎに失礼する。また我々の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
(文責 福田亮雄)