活動報告(3)2012年6月

期 間:6月19日(火)~21日(木)

 

6月19日

上野駅…新花巻駅…遠野駅…17番 城玖寺…16番 長桂寺…14番 満藏寺

…住田町役場観光課…住田町中央公民館図書館…五葉舎…風呂…竹野さん宅

 8時01分上野駅発。気仙三十三観音霊場も残すところあと3ケ所となり、今回で満願となる。また、マップの発行やHP作成、朱印の作成・配布という事業もいよいよ始動したので、実行に当たっての配布方法なり経費の試算といった具体的な方法についての打ち合わせも大きな目的である。台風が刻々と近づいているとの報を目にし、どれくらい閉じこめられてしまうのか、少々不安を感じてのスタートとなった。

 仙台あたりは小雨であったが、徐々に曇り空へと変わっていく。なんとか今日はもちそうでちょっと安心する。新花巻着。今回は、吉水さんが遠野まごころネット主催の「寺子屋」にて話をするので、遠野まで電車で行くこととする。新花巻駅で「賢治弁当」購入。車中で食し、昼食時間を節約する。観光客多し。2両編成だったが、いっぱいの人。ディーゼルカーは、のんびりと休み休み走るが、一生懸命走る車と大差ない時間で到着。駅前の建物が綺麗になった。なつかしの遠野駅前でレンタカー会社に電話をし、迎えに来てもらう。車で5分ほど。車は軽のEKワゴン。

 

 遠野から住田は、道も良く距離も短く快適である。まずは17番 城玖寺へ。本堂前で法楽を捧げる。が、不在でお会いできず。納経用紙に揮毫してもらおうと思ったがかなわない。すぐ近くの16番 長桂寺へ。若いご住職と初めてお会いする。前回は、お母様とお会いし、沢山お菓子を頂いてしまった。震災一年後から体調を崩され、入退院を繰り返していたとのこと。震災後の極度の緊張感の中、ご葬儀、七七日忌の法要、一周忌法要等めまぐるしく時が過ぎ、ようやく一区切りとホッとしたとき、精神的な疲れがどっと出てしまったのであろう。本堂にて法楽。納経の際にお渡しする用紙を書いていただく。お菓子をまた頂戴しお見送りいただいた。ありがたい。

 

 次は、14番 満藏寺へ。住田町の中心部である世田米にある。旧道から坂を上がると気仙大工の匠が技を駆使した山門がある。仁王様が迎えてくれる。庫裏をお尋ねすると、若い方が応対してくれる。話によると、兼務住職より依頼され、これからお通夜にいくとのこと。とてもタイミングが良かった。活動の趣旨をお話ししたところ、ご賛同いただけたが、巡礼の方にご朱印をお渡しする手だてが難しいとの感想を述べられた。

 

 

 別れ際、佐々木さんのお兄さんが、五葉山の麓の工房で仏像を彫刻しているとの話を聞き、帰りに立ち寄ってみることとした。もと酒屋さんだという建物が工房となっている「五葉舎」。あいにく佐々木さんは不在であったが、奥様が応対してくれる。いま、高田松原の松の被災木で白衣観音様を彫っていらっしゃるとのこと。壁に下絵が貼られ、観音様の形は掘り出されていた。高さ2mもあろうか。大きなお像である。もし、津波で流されてしまった観音像を新たに作るとき、お願いすることになるかもしれないとあれこれ想像した。今度は佐々木さんがいらっしゃるときに伺ってお像を見させていただきたい。

 

 帰りは六郎峠越え。くねくねと道はうねり、すれ違い困難な箇所もあったが、とりわけ問題なし。数年後、歩き巡礼道を整備することになった場合、ルートにこの六郎峠越えをとることになるはずだ。はからずも下見が出来てしまった。雨は小雨。なんとか天気が持ってくれてありがたい。

 宿泊所の鍵を借り、いつものオーシャンビューホテル丸森で風呂に入る。その後、屋台村の「なかむら」へ。台風接近の報が流れていたためか、この日の客は我々二人だけ。

 

 本堂にあげていただく。外陣左に三十三観音像がお祀りされているが、地震の際に落ちてしまったそうで、光背が欠けてしまったお像が何体もあった。内陣左の間には、厨子にはいった観音像がある。その前で法楽を捧げる。また床の間には、小さなお地蔵様の像が何十体とある。こちらも、地震によって損傷したものが多数有る。このように多くの仏像をお祀りされている満藏寺の実力を感じた。お礼を申し上げ寺をでる。

 

 

 気仙川を渡るとすぐに住田町役場に到着。まず、役場に併設されている図書館で、郷土史家で世田米の光勝寺のご住職をなさっていた根来広範さんが書いた『気仙三十三観音霊場巡礼のしおり』を探すが、所蔵されていない。ここならきっとあるはずと期待してきたが残念だ。他の根来さん執筆の住田の歴史に関わる本は多数所蔵されていた。観光協会の佐々木さんとお会いする。マップの配布方法についてお尋ねしたところ、仮設住宅の集会所に置いても特定の人しか集会所を訪れないし、まとめて置いておくと何部も持って行く人もいるため、必要としている人の手に渡らないことになってしまうのではないかとアドバイスを頂いた。住田町としては、仮設住宅の方々には、震災復興にかかわる印刷物を配布するとき、いっしょに配れるのではないかとのありがたいお申し出。その数最低120部。

 当初は、まず仮設の方々にお参りを頂こうという心づもりであったが、霊場各所にお渡しし、住田、陸前高田、大船渡という広い地域の仮設住宅を対象としたとき、1000部ではまったく足りないと認識した。となれば、必要とする人の手元にいかに届けるかと発想を転換しなければならない。

 

6月20日

タケノ文具店で朱印についての打ち合わせ…大船渡市役所観光課…地の森仮設団地

…東海新報社…陸前高田市役所観光課…11番常光寺…12番平栗福寿庵

…遠野で仏教講座(18:00~20:00)…遠野駅(22:00)…上野駅

 昨晩、目を覚ましたときには、強風吹き荒れていたが、朝目覚めてみると雨も小降り、ときおり日が差していた。台風一過、天気は好天に向かう。朝食は、昨晩買ったパンとサラダ。この天気ならいつも通りローソンでうどんかそばが良かった。部屋の掃除し、ゴミの片付けの後、出発。

 

 8時15分鍵を返却しがてら、朱印の打ち合わせに行く。本尊の名と霊場の名を印刷した紙と霊場名の角印、本尊の種子の印の3点を作成することをお知らせする。紙をいくつか見せてもらう。厚みがなくてはならないが、こうぞが入った紙は結構値が張るそうで、「奉書紙」でよいかということになる。角印は字数に関係なく寸法で値段が決まり4,000円、種子の印は、もっと値が張るため1万円くらいか。私が同じ教区の寺院にサンプルとして種子の印を押してもらったが、スキャナでとりこむ場合、洋紙の方が鮮明に写るとのことで、改めてきれいに押してもらいお送りすることとなる。その他、角印作成のとき使用する各霊場名の一覧作成、種子の印作成に当たってどのサンプルを使用するのか、また、それぞれの霊場の本尊の種類を調べて個数決定(聖観世音、馬頭観世音など)、また、種子のサンプルのコピーなど細かな作業が必要なことが分かる。竹野さんとの話。大船渡にも松の防風林があったが、津波で倒壊してしまったとのこと、そこでその松を商品化できないか思案中だそうだ。大船渡のなかですべての仕事が出来るものとして、巡礼の杖はどうかという話になる。たくさんの方がお参りするようになれば、観音霊場を核とした人の流れ、ものの流れが生まれてくるに違いない。いろいろおもしろそうだ。

 

 青空が徐々に広がってくるのに感謝しながら大船渡市役所に向かう。晴れてきて暑い。商工観光課の担当の方はいらっしゃらなかったが、商業観光課の方二人が対応して下さる。マップ配布のお知らせを広報に載せることについては、特定の宗教的行為を取り上げるのは難しいのではないかとの意見であった。個人としては、以前発行したマップも持っており活動については賛成だがという但し書きがつく。市の広報より「東海新報」に記事を載せた方が注目度が高いという。また、観光協会は自由に動けるので、マップを置かせてもらうことができるというアドバイスももらう。配布の方法として、地区公民館に一定数を配布するとまんべんなく行き渡るのではないかとお話し下さった。

 

 市役所に隣接している21番 洞雲寺を訪れたが、ご住職はあいにく檀家の方と対応していたため失礼する。観音堂に法楽を捧げる。

 

 ここでまだ10時。地の森仮設に伺う。この仮設はもっとも早くできた仮設だそうで、高齢者や障害を抱えた子を持つ家などがまず入居したところだそうだ。吉水さんは、少し前にも訪れたそうで、支援員の方々とも顔なじみである。ちょうど日に二回運行される買い物バスが発車する時でお年寄りが何人か待っている。第一便は9時、7人が乗っていったそうだ。そして第二便、何人が乗っていったのだろうか。この仮設の住居の地域は、車両進入禁止となっており、安心安全だ。中央の通路には、大学生が作成したというベンチがいくつも置いてある。路地には花や野菜が沢山植えてあり、何か楽しい気持ちにさせる仮設である。高台にあるせいか、風がよく通る。ベンチに座っていたおじいさんたち、おばあさんたちとのんびり話をする。30年ぶりに樺太から帰ってきた人が新しい奥さんを連れてきて、二人の奥さんそれぞれつらい思いをしたという話や、この仮設は病院の跡地なので幽霊がでると噂が広まったこと、少し先の家に幽霊が毎日のように出た家主が転居したこと、これまで3度逢った津波の体験談など、涼風に吹かれながら楽しく時を過ごした。集会所に行くと、まん丸なフクロウ二羽が木に止まっているアクセサリーを作っていた。今も行われている数珠繰り念仏のお話しや、念仏の時にお唱えする言葉が書いてある本を津波で流してしまったこと、集落ごとにお唱えする言葉が違うこと、お祭りの時、集落によって剣舞であったり、七福神、権現様など歌や踊りを伴う「芸能」を行うことなど興味深い話を聞かせてくれた。それらの「芸能」の映像を記録し、霊場のHPにアップしたいものだ。

 

 末崎・麟祥寺のご住職に電話をし、連絡先が分かっていなかった24番 熊野神社の宮司さんについて伺ったところ、近くの会社にお勤めと教えてくれた。とりあえず、大船渡屋台村近くにオープンした「せんかえん」にて野菜炒め定食を食べる。店に入ったときから、東海新報の佐々木さんとそっくりな人が食事をしていると思っていたが、ご本人であることが判明。まことにもって偶然である。互いにびっくり。後ほどお伺いすることをお伝えする。

 

 宮司さんお勤めの会社を探すと、前回夕食を取った店の隣であった。ご挨拶をし活動の趣旨をご説明する。観音様がお祀りされているお堂は、本来は中に入ってお参りしてもらうのだが、今はさまざまな家財道具が入っておりかなわないとのこと。連絡先を伺った。そして東海新報社をお尋ねする。佐々木さんは是非ひとさじの活動を記事にしたいとおっしゃってくれた。活動の予告、マップ完成、配布など、その都度、記事を掲載した方が、地元への認知度があがるとアドバイスをいただいた。その記事の中にマップ配布の時期や配布の方法、問い合わせ先などを書いておけばよいとのこと。さすが視点が違う。霊場の中には、いまでも18日のご縁日に講を開いている田端観音堂のようなところがあること、流されてしまった立山観音堂は縁日が出て、大変にぎやかであったことなど教えてくれた。

 

 仏師の佐々木さんの話をすると、明日の朝刊に仏像の写真がでるとのことでゲラを見せてくれた。根来広範さんの本が見つからないことをお話したところ、いったんデスクに戻った佐々木さんがニコニコして、本のコピーが出てきましたと現物を持ってきてくれた。次回までにコピーをして下さるとのこと、ありがたい。なんで、こんなに関係者とつながるのだろう。ご縁では片付けられない強い意志を感じるのは私だけだろうか。佐々木さんも霊場の取材を通して、多くの良き人と出会い、そして観音様と出会ったのだろう。思い入れがとても強い。その思いが私たちの活動を後押ししてくれる。明日のひとさじの会総会の議決を待って正式にマップ印刷を発注することを連絡し、ここを後にする。

 

 陸前高田市役所に向かう。商工観光課にて活動趣旨の説明。市報に載せるのは厳しいかもしれないと聞いたので、広報課に挨拶に行くのはどうしようと躊躇していると、せっかくですから話を聞いてみましょうと繋いでいただく。広報担当の方が現れたのだが、この方は、津波で流されてしまった立山観音堂の管理をしている方であった。役場の広報担当の方というより、霊場の管理者としてお話しを頂いた印象が強い。流されたお堂は、小学校時代に再建されたもので、地元の多くの方の寄付を頂いて建てられたそうだ。お堂の辺りは避難場所になっており、震災当日も大勢の方が、お堂の所まで避難してきたが、身の危険感じたためさらに上へと逃げたそうだ。お堂まで避難してきた人はすべて助かったという。地元の方の身代わりに観音様が流されてしまったのではないか、と訥々と語られた。

 

 初めは、少しゆとりが出来たらお堂を再建したいと思っていると話されていたが、古くから伝わる書き物が流されたことや、縁日のことなどなど、お堂にまつわるお話しを続けているうちに、今の場所に再建するかどうかは別として、出来るだけ早く再建したい、家が建っても観音様が後回しになって粗末に扱ったら申し訳ないと強い口調で言われた。お母様が仮設に入っている今、観音堂再建はあえて考えようとしなかったかもしれない。ところが、こうして他人に話をしているうちに、観音様と向き合い、自らの思いが整理され、思いが奔流となりほとばしったのではないか。この出会いは、これまた観音様の引き合わせではないかと強く強く感じた。観音堂再建という段になったとき、ご協力させていただきたいと思った。

 

 観光協会にも顔を出したところ、霊場マップ作成にも関わったという実吉さんとお会いした。霊場再興プロジェクトの話は聞いていたので、是非お会いしたいと思っていたと熱く話された。関係者の間では、再興プロジェクトを話題にしていただいている様でこれまたうれしくありがたい。なんでもマップにある霊場間の距離や所要時間は3日掛けて車で計ったそうだ。協力できることが有れば是非協力したいと言ってくださる。

 

 いよいよ、あと二つで満願である。まず、11番 常光寺へ。高台にあるお寺で、鉄筋の本堂である。大正期に住田町の多くが焼けるという大火があり本堂はその後の再建という。ご住職からは、真言宗智山派寺院で形成されている東北三十三観音霊場の納経帳を頂く。それぞれの寺院の本尊名と寺院名が印刷され綴じ込まれている。これで、用紙が7ヶ寺集まった。観音堂は本堂の裏手の山腹にある。33年に一度のご開帳だとか。中に入って法楽を捧げる。

 

 車で5分も走ると12番 平栗福寿庵である。車道からいったん沢まで下り、少し登り返した台地の上にお堂はある。まだ新しい立派なお堂だ。中に入ってお勤めをすると、古い御厨子がある。17年に一度のご開帳だとか。堂内には絵馬が沢山掲げられている。管理者は、すぐ近くにお住まいである。挨拶に伺うと、以前郵送した活動方針を読んで頂いたようで、すぐにおわかりいただいた。ご開帳の時は、多くの方がお参りに見え、版木を摺りそれに印を押した物をお配りするとのこと。ご郵送いただけるそうだ。

 

 これにて満願。三回のお参りを通して、考えられないようなありがたい出会いが多々あった。そして、出会った方々それぞれの観音霊場にかける熱い思いをひしひしと感じることができた。霊場再興プロジェクトは、みなさんのその思いを追い風として帆にしっかりと受け止め、前へ前へとと力強良く進んでいきたい。

 

 その後は遠野で車を返し、遠野まごころネット事務所に向かう。今回は180キロ、ガソリンは1260円だった。軽は安い。吉水さんの、仏教者の震災復興支援活動についてのお話しが1時間半あり、その後夜行バスで帰京した。

(文責 福田亮雄)