2013年4月27日より5月19日まで、両国・回向院さまにおいて「東日本大震災復幸支縁 善光寺出開帳 両国回向院」が実施され、3万人を超える多くの方にお参りいただいた。
ひとさじの会で「出開帳」を行い、被災した4つのお堂の再建資金を集めたらどうかと話したのは、昨年の8月だった。金剛寺、要害観音堂、坂口観音堂の観音さまを東京にお連れしたい。要害観音堂の熊谷さんと立山観音堂の大和田さんらに、霊場にまつわる物語を語ってもらいビデオ出演してもらったらどうだろう。場所は浅草寺か、江戸東京博物館か、それともデパートがよいかなど雑駁な話をしていたのを覚えている。
その少し後、両国回向院さんで「善光寺出開帳」が行われるという話が伝わってきた。回向院本多上人に気仙の観音さまをお迎えしたらどうかと提案したところ、是非に、とすぐさま太いご縁がつながった。「ありがたし」とはめったにないという意。まさにありがたく尊いご縁である。
新築された念仏堂の二階の広間に気仙にまつわる仏さま―被災地に安置する一光三尊像7体、高田松原の被災松で建立された親子地蔵、要害観音堂聖観音、金剛寺如意輪観音―が安置されていた。畳みの大広間であるため靴を脱いで、間近に仏さまを拝することが出来る。幾たびか、部屋の脇でお念仏を申したが、皆さん、説明文を良く読み仏さまを熟視された後、固く目を閉じ手を合わされた方をよく見かけた。またある方は、畳にぬかずき礼拝されていた。涙を流しながら拝まれている方もいらっしゃった。いちように「よく泥の中から現れて下さった」とおっしゃっていた。まさに「ありがたい」という思いであろう。
私は、一度両国駅前の長屋ストリートで行われていた陸前高田の物産販売のボランティアに行った。気仙出身の方、ボランティアとして気仙に行かれた方、復興支援活動を行っている方など、みな自然体でそして熱い思いを抱き、一日声を張り上げTシャツ、醤油、わかめ、しいたけ、アクセサリーなどを売っていらっしゃった。気仙町出身という方から両手に持つぐらいたくさんの品物を買っていただいたこともある。相撲の帰りにわざわざ立ち寄って下さった方もいる。そのボランティアの中で、陸前高田市の要害の出身だという森さんと知り合った。実家は要害観音堂の数百メートル先。要害観音堂別当の熊谷さんは小学校の2つ先輩だという。一緒に出開帳に行き、要害の観音さまを拝した。対面した瞬間からとめどもなく涙があふれ「よく一月後に観音様が出てきてくれた。小学校の頃は観音堂でかくれんぼをして遊んでいたけれど、上の方にあった観音様はみたこともなかった。故郷は津波でみんな流され子どもの頃見ていた風景が無くなってしまった所も多いから、観音さまが見つかったことは本当にうれしい」、身体を硬くして至心に祈りを捧げられていた。その姿を横で見て、お話しを伺って、善光寺出開帳に気仙の仏さまとのご縁を結ぶことが出来て良かったとしみじみ思った。
何万という方の思いが観音様に捧げられ、そのあまたの思いを抱え持って、観音様が気仙にお帰りになる。そう考えると、心がうちふるえる。
また、本堂で行われた法話・講演に私どもを含めた気仙にゆかりのある方々がお話しする機会を与えられた。金剛寺ご住職小林信雄僧正は、金剛寺の歴史を話された後、被災後なにを考えどう行動したかということについて話された、吉水上人は、気仙の伝承念仏を教えていただいた時の話から気仙に伝わるご詠歌について話された。私は、気仙三十三観音霊場の歴史や魅力を話した後、被災地のいまとこれからについてお話しをした。大船渡永沢仮設でボランティアの受け入れにあたって活躍された平山睦子さんは、自作の詩を朗読しながら震災後の思いをからりと話された。陸前高田観光物産協会の震災の語り部実吉義正さんは、様々なデータを示した後、映像を見せながら震災にまつわるエピソードを熱く熱く語られた。
いずれの会も100名を超える方々が聴聞され盛況であった。気仙にすこしでも興味・関心を持っていただければ幸いである。売店にて東海新報社 佐々木克孝氏著『改訂版 気仙三十三観音霊場 祈りの道』及び「気仙三十三観音 祈りの道探訪」マップを販売したところ、多くの方に購入いただいた。ひとりでも多くの方に気仙に足を運んでいただきたい。そして観音様を拝んでいただきたい。
最後になりましたが、熱意を持って出開帳実施に向け尽力いただいた回向院本多上人にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
以下、パネル展示のために執筆した文章です。
気仙三十三観音 第四番札所 要害観音堂 聖観世音菩薩像
要害観音堂は、陸前高田市気仙町字要谷、海から150メートルほどあがった住宅地の中にひっそりと建っていた。ご縁日には、ご近所の方々が食べ物を持ち寄り、礼拝後「お茶っこの会」を開くといった地域に溶け込んだお堂であった。
東日本大震災の際、津波に呑み込まれ、観音像、観音堂、別当家の住居とすべてが流されてしまった。現在、観音堂跡には、土台さえなく、どのようなお堂があったか想像できない。震災後、別当の熊谷さんがあたりを掘りおこし、がれきの中からご本尊の聖観音像(秘仏)とお前立の聖観音像二体を発見した。この度、地元の仏師にお願いして修復成ったお前立の聖観音像にお出ましいただいた。観音像が手に持つ錫杖は、通常、地蔵菩薩が手に持っているものである。素朴なお姿であることを考え合わせると、京仏師が彫ったのではなく、地元「気仙大工」の一人が彫ったお像であるのかもしれない。
気仙三十三観音 第二番札所 真言宗智山派 如意山金剛寺 如意輪観世音菩薩像
如意山金剛寺は、陸前高田市気仙町字荒町にある。真言宗智山派に属し、平安初期の仁和4(888)年、歌人の大江千里がこの地に下向した折に建立した寺院であると伝えられている。江戸時代には、伊達藩主、巡見使が止宿し参拝した寺であり、常法談林として地域の中核をなす寺であった。
東日本大震災の際は、津波が150メートルほど離れた気仙川から押し寄せ、気仙大工の技を凝らしたご本堂や1年前に落成されたばかりの庫裡などを呑み込み、高台にあった成田山不動堂と聖天堂がかろうじて津波から免れた。震災後、寺族や地域住民ががれきや泥の中から御本尊の如意輪観世音菩薩像やバラバラになった仏像を発見し、一関の仏師により1年9ヶ月かかってようやく美しいお姿がよみがえった。この如意輪観音様は、本来秘仏として祀られてきたが、この度、東日本大震災「復興支援」のため特別にご開帳いただくことになった。
「気仙三十三観音霊場」への誘い
観世音菩薩とは、衆生の苦しい悲しいという声を聞き、それぞれの人にあった姿に変化して、悩み・苦しみを救い、願い事を叶えてくれるという仏様である。観音霊場の巡拝は、平安時代に始まったと言われているが、陸前高田市、大船渡市、住田町のいわゆる気仙地域にも、江戸時代半ばの享保三(1718)年、高田村の検断役佐々木三郎左右衛門知則が、父母の追善供養のために選定し「気仙三十三観音霊場」が開かれた。平安時代の坂上田村麻呂に関わる伝説を持つ「気仙三観音」や、江戸時代に東北の大富豪として名を馳せた稲子澤家がお祀りしていた百一観音など、様々な物語を抱え持った霊場である。
長い間、地元の方々の心のよりどころであった観音霊場だが、昭和も半ばを過ぎ、道路が整備されてくると、地域の外へと目が向けられ、お参りされる方も少なくなったきたという。今は、地元に観音霊場があるとは知ってはいるものの、すべてをお参りしたという方はまれである。また、この度の東日本大震災で程度の違いはあるが、9つの霊場が被災した。この未曽有の大災害によって大切な人や家を失い、今後の生活への漠然とした不安や喪失の悲しみを心の奥底にしまいこんでいる地元の方々にお参りをいただきたい。あわせて、全国の人に気仙地域の祈りのかたちである「気仙三十三観音霊場」に足をお運びいただいて被災地の現状をご覧いただきたい。共に殉難者の慰霊と早期復興への祈りを捧げていただければ望外の喜びである。